あじさい通信


第2号
FIWCキャンパー通信
発行責任 青山哲也,青木麻里,山田あかり
 今月のはじめ,キャンパーの山田あかりとともに長島愛生園を訪ねました。先月の「あじさい通信」で手紙を掲載させていただいた近藤宏一さんのお部屋にうかがった際,先輩である徳永進さんの講演テープを聞かせていただきました。テープを聞き終わった後,近藤さんは押し入れからハーモニカを取り出し「ふるさと」などの曲をふいて吹いてくださいました。その近藤さんのハーモニカを吹いている姿を見て,流れる曲に耳を傾けながら,この音色,そこから感じる心の声をこれからの世代の人間にも伝えていきたいと思いました。                   青木 麻里


 近藤さんのお宅でダビングさせていただいた徳永さんのラジオでの講演テープを抜粋して紹介させていただきます。題は「春,夏,秋,冬」です。  講演内容に出てくる島田さんはハンセン病の療養所におられた詩人でした。交流の家にも来られたことがあります。


「瀬戸内の哲人からの手紙」

 秋でした。葉書が来ました。「そろそろ長くなくなったようです。」と葉書にはかいてありました。私はびっくりしました。その人は,瀬戸内海の小豆島の北にある長島っていう島に住んでおられるハンセン病,長島愛生園で暮らしておられる,シマダヒトシさんでした。私はびっくりして長島まで来るまで駆け付けました。シマダさんは,私が大学生であった時に,ハンセン病の悲惨な歴史を教えていただいた人でした。

 シマダさんは,日本のハンセン病の患者さんは,多く,村々から強制収容されて,国立や,私立の療養所に収容されて,そして本名を名乗ることもできなかった。本名を名乗って故郷の家族に迷惑をかけてはいけないので,皆,偽名を使ったっていうことを教えられました。結婚しようとすると男の人は断種手術を受けて,子供をできな・・・子供が病気になったらいけないので,という意味で断種手術をされた,ていうんですね。皆,故郷に帰ろうにも帰れず,じーっとこの島で息を殺すように生きてきた,それを教えられました。私はびっくりしました。


「山はありますか,川は流れていますか」

 そして歩いてみますと,鳥取の人たちがいらっしゃいました。鳥取の人は,私に会うと嬉しそうでした。「あなたの鳥取弁が懐かしいですわ。何でもいいけえ,喋ってつかんせえ。」といいました。「あのう,大山はまだありますか?」と聞きました。「えっええ,山崩れになっていないとあります。」「あのう鳥取砂丘はあるでしょうか?」「ええ,ちょっと狭くなりましたけど,あります。」「あのう,倉吉の天神川は流れとるかなあ。」「ええ,断水になったと聞いてませんから流れとるでしょうよ。」皆が聞かれることが,そんな当たり前のことでびっくりしました。あの山はあるか,あの川は流れているか,本当に初めて聞く質問だったですね。私は,あのう,でも,多くの患者さんたちがですね,くじけて,泣いて,布団をかぶっていうのではなくて,不自由な手で道を歩き,ある人は目が見えないのにハーモニカを吹いて,“青い鳥楽団”で合奏をし,その音が瀬戸内海の海辺を流れていたり,・・・それから色んな努力をしてお風呂に入ったり,食べたりということをなさっている姿を見て,すごい人たちだなあということを思ったんですね。


「ノン」

 シマダさんは私に「ノン」ということを教えて下さいました。ハンセン病はいくつか分類されてましてね,その中に最後に「ノン」というのがあるんです。私は「“のん”って何ですか?」って聞くと,「これはね,ハンセン病でない人のことなのです。でもご主人が病気になって一緒の療養所に来て,そして自分も一緒にっていう風にどうしても,あの,この島に入られた人が“ノン”として,あの,主人の介護されたり,他の病友の世話をしたんだ。」とおっしゃいました。私はびっくりしました。「ノン」という患者なんですね。患者でない患者っていう人がこの国の療養所の中にいらっしゃいました。私は,その鳥取の患者さんを訪ね歩いた時に,群馬の草津に鳥取出身の「ノン」の方がありました。その方は,長島に来たときに「夫婦は一緒には住めないよ」っていわれたので,「一緒に住めるとこは?」って聞くと「群馬の草津にある自由舎,自由地区っていうのがある」ということを聞いてそこまで行かれるわけです。そして自分たちでお金を払って,家を建てられて過ごされたんですね。で,ご主人が亡くなった後もその奥さんんは他の療友の方々の面倒をみたり,そしてここで,「ノン」という,らい・・・ハンセン病の患者でない患者として生かれ・・・生き続けられたわけですね。私はもうとにかく,色んなことが,このハンセン病の療養所の中にあったんだっていうことをシマダさんから教えていただきましてね。もうある意味じゃあ本当,大事な恩人の一人なんです。


「・・・・・・柔らかくなるんだ」

 島に行くと,シマダさんは「どうもすい臓やられたらしくてね。もう少し生きたいと思ったんだけど,ダメなようだね。まとめたい仕事もあったんですけど・・・」と言われました。「頑張って下さいね。」と言って私はお見舞いの後,手を握りました。すると後遺症の為に堅い,冷たい手でした。1ヶ月後,シマダさんは亡くなりました。それを聞いて私はもう一度,長島へ行きました。えー,お通夜が済んで葬儀の朝,皆が準備の為におられなかったお通夜堂に私が行くと棺があって,そこにシマダさんは入っていました。私はフタをとり,すると白い布があったので布をとるとメガネがズーっとずれていました。「あれれ,シマダさん。メガネがずれていますよ。」と言って,そして「色んな大事なことを教えて下さってありがとうございました。」と言って,持って来たカスミ草を棺に入れて,そしてもう一度手を握りました。するとあの堅かった手が,色は紫でしたけど柔らかくなっていました。私は「なんだシマダさん。シマダさんの手って柔らかくもなるんだ。」と思って,もう一度,顔に布をかぶせフタをしました。


「やしの実」

 小さな葬儀でした。友人代表が言いました。「シマダヒトシは昭和22年,三重からこの島に収容され,49年間この島で過ごしました。え,『小さな葬式でいい,それから骨は納骨でなく,自分の三重の,故郷の三重のほうの海に向かって流してくれたらいい。』と言い,その遺志に従いました。邑久光明園というハンセン病の療養所がもう一つありまして,その丁度中間ぐらいに小さな村があって,黙祷が終わるとスイッチをいれました。しばらくすると,ゴオーっという音がして白い煙が空に上がっていきました。前には瀬戸内海がありました。プチャン,プチャン,プチャン,プチャンっていう波の音が聞こえました。シマダさんの骨は,その遺志を受け継いだ友人たちによって,三重の方の海へ向かって流されました。「やしの実」という歌があります。「〜遠き島より 流れるやしの実一つ ふる里の岸を離れて なれはそも波に幾月〜」私は,あれはどこか南の方の島のやしの実が日本のどこかの海岸にたどり着いたという歌ですが,49年間を故郷から離れて瀬戸内海のある島で過ごさせられたシマダさんの骨が,一つのやしの実となって三重の海岸にたどり着くという状況を想像しました。三重の海岸でシマダさんのやしの実を拾った人は,その実をみてどう思うだろうか,と思いました。帰りたかった49年間。ようやく骨となって,骨のやしの実となって三重の海岸にたどり着いたシマダさんのやしの実。


僕は島田さんとお会いしたことがある。らいの歴史について話を聞いた。僕の仲間のあいだで,島田さんは哲人だった。いつも,静かにいらした。いまも島田さんの生き様と詩は僕のなかに生きている。   青山 哲也

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次回は・・・
神戸で私達の拠点を提供して下さった灘カトリック教会の山野真美子さんです。 神戸の現状と受け入れ側から見たFIWCの活動などを報告してもらう予定です。


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